レマン湖畔より

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<<   作成日時 : 2008/09/21 20:52   >>

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画像1960年3月、スイス、チューリッヒ州ウィンターツール工業学校機械科を卒業した28人の青年は、希望を抱いて、世界に羽ばたいて行きました。夫もその中の一人でした。生まれた年は1933年―1938年、兵隊学校がまだの人、卒業してきた人、下士官学校、将校学校を終えてきた人で、年齢に差がありました。

自分で会社を起こしたのは、級長の「コサック」で、トンネルを掘った後の土を排除する運送方法を開発したそうです。「躍動」は、働いていた会社破産後、買って事業を続けたそうです。ニュージーランドへ行った「スクウィッフィ」も独立して、工作機械を売っていました。後の同級生はサラリーマンでした。(「」はあだ名)

現在、「スクウィッフィ」を除いた全員が定年退職しています。

現在まで、一人は事故、4人は病気で亡くなっています。

卒業以来、クラス会は16回開かれました。初めは、男同士で、飲んで騒いでいたそうです。妻が夫の戦友になった頃から、つまり1980年から妻同伴となり、2年に一度、そして、1992年からは、一泊二日になりました。同級生は、スイス全体に散らばっていて、そして、外国に住んでいる人もいるので、毎回、開催地は違います。夫は二度、1990年モントルーと2002年ローザンヌでのお世話係りをしました。

今回、2008年は17回目に当たります。バーゼル付近の同級生は、1992年のフランスのアルザス地方での会についで、二度目のお世話係になりました。「ずる休み」が実際に、「市内電車」がパソコンを使っての支援に回りました。

バーゼル駅前の市内電車乗り場で、2組半のクラスメートに会い、一緒にアーレスハイムのホテルまで行きました。<半>というのは、「スポーツ」は奥さんを3年前に亡くし、一人で来たのでした。

画像今回の参加者は妻たちを入れて27人、ホテルでの歓迎アペロで、再開を喜び合いました。話しかけても知らん振りの人がいて、「この人、耳が遠くなったのだ」と思いました。その後、バスでドルナッハのゲーテアーヌム(写真)見学です。ルドルフ・シュタイナー(1861−1925)の原案を元に、劇場として建てられたものです。1923―24年に木造で建てられたのですが、放火により消失、1925―28年にかけてコンクリートで建てられました。ガイドは、建築家だそうですが、「その当時では、最新のコンクリート技術」とのことです。外から見ると、重いのですが、中は、色ガラスが美しく、椅子、床は木で、手作りでした。

シュタイナーは、霊界でアイデアを得、それを実際生活に役立てようと様々な方法で、教育、建築、健康、農業などに新しい面を開いたということです。「頭だけでなく、心、気持ち、そして、実際の生活」がモットーでした。日本でも、ルドルフ・シュタイナー学校が知られているそうです。

夕食は、ドルナッハの丘の中腹にあるシュロスホーフ(お城の農場だった所)で、遠くは、アルザスの山が見渡せる景色の良い所でした。アペロの後、席に着くのですが、飲み物は自分で払うので、夫婦は一緒に座ります。まず、今年亡くなった「腐植土」を偲んで一分間の黙祷で始まりました。「腐植土」は南フランスに住んでいたので、1998年モナコの会お世話係りをしてくれました。メニューですが、最後のデザートはパナコッタです。が、@は魚希望者で、先ず、前菜にサラダ、メインにえびとほうれん草のバター焼き、ご飯。これは、普通。Aのお肉希望者には、大きなお皿に串にさしたお肉とサラダ、そして、フレンチフライ(ジャガイモをあげたもの)が別に付きました。その串がオーバーではなく、30cmはありましたね。食べた人も驚いていたようです。それでも、全部食べた人が多かったのには、又も、驚きました。お隣さんが「残さないで食べるように躾けられたので・・・」と。こちらの人で、『えびは虫みたいで、食べられない』という人がいるのです。夫は、向かい側を見て『「巨人」、生野菜、全然食べないよ』と言うので、『消化出来ない人がいるのよ』と私。

テーブルで会話は弾みました。@補聴器の話。チャキチャキとした「躍進」の奥さんは、私と同年で、何時だったでしょうか、最初に会った時に、もう補聴器をつけていました。誰かが、耳が遠くなったらしく、彼女に質問していました。私も・・・と耳をそばだてました。A孫の話。子供が近くに住んでいる人は、週に何日か、孫の世話、遠くにいる人は、孫の学校の休みに『家が子供の休暇の家になる。そして、夏には、自分はプールの監視員になるよ。』B9月18日開通のスイス初の運転手のいない地下鉄、M2の話。

最後に、2年後のお世話係が「躍進」に決まり、『次回は自分に回ってくるような気がしていました。森の小屋で、自分が料理します。』

翌朝は、「立方体」と奥さんにお別れ、私達は市内電車で、バーゼルまで行き、ガイドさんに町を案内してもらいました。横道を入ると、ステキで、小さな広場があったり、ライン河を見下ろす司教座聖堂を見たり・・・と盛りだくさんでした。

記念撮影の後、タングリー美術館のレストランで昼食。「厳格」教授もいらして、昼食を共になさり、昔の学校の変化を話して下さいました。現在は、専門大学になっていて、あの当時600人だった学生が、現在は1000人だそうです。夫達は、計算尺でかなり正確に計算したのだそうですが、今計算尺を知っている学生は、ほとんどいないそうです。教授は、皆より6歳しか年が違わないのです。物理の先生で、学校を出られてすぐに、このクラスを担任なさったそうです。81歳とは、とても思えない位、お若いのでした。この後、教授ともお別れ。

画像この後、希望者だけ美術館を見学しました。タングリー(1925−1991)は、ガラクタを使って、モビルを作った人です。写真は、タングリーの噴水とニキ・ド・サンファルの作品です。

夫婦揃って・・・と言いますが、同伴でないと、もう来られない人もいます。

「立方体」は、若いときは、さぞステキな青年だったろう、と思われます。体格が良くてハンサムで、座っていると、全然わかりませんが、MS、つまり多発性硬化症を患っています。最初に「何か変だ」と気がついたのは、バスの中で、1992年でした。段々悪くなり、今回は両手で杖をついての参加でした。奥さんは、エレガントで、私たちの間では、唯一人、まだ踵の高い靴をはいています。『「立方体」は夕方早く寝てしまうので、私は犬を連れて散歩に行きます』と以前言っていました。その後、大きな家からアパルトマンに引越し、今、コーラスで歌っているそうです。この方が2002年のオーストラリアでの会の飛行機の予約、2006年度サンモリッツの会のお世話係りでした。

「コサック」の奥さんは、1992年、アルザスに行った時、パーキンソン特有の小刻み歩きでした。それでも、毎回来ていて、ある時、大分良くなっていて、驚きました。『先生が、私の為に薬を開発してくれた』と言って、『これから筋トレをはじめるの』とニコニコしていました。2002年、ローザンヌで夫がお世話係をした時には、自分で作った陶芸のお皿をプレゼントしてくれて、感激しました。2004年には、「コサック」がお世話係で、アルプスの南側、アスコナの別荘に招待してくれましたが、飲み物をサービス出来るくらい回復していました。『パーキンソンは治らない、というのは嘘だ』と私は喜んで、そして、他人も話していました。今回、体は右に傾いていました。『先生が定年退職して、新しい先生になり、その先生も良い先生。注射してもらったけれど、効き目がなかった。もう、うんざり。』

もう一人、パーキンソンの人がいます。症状は落ち着いているようですが・・・。

「市内電車」は、2年前、サンモリッツで、毎朝、看護士に来てもらっていましたので、『いかが?』と聞いてみました。背骨とお腹、2ヶ所に管を通してあるので、その手当てに3日に1度来るのだそうです。『大したことないよ』と生きる気満々です。奥さんは、1994年既に、歩くのが大変になっていました。『どう?』と聞いたら『腰も手術して、それでもおかしいので、もっと調べてもらったら、脚の筋肉が無いのですって。それで、セラピー、セラピーの連続で・・・』と言うのですが、生き生きしているのです。美術館でも、『何回見ても、すごい!』そして、売店でスカーフを見ていて、『急に、出かけなければいけない時、こういうのがあると、便利よね・・・』と、夢見る目をしていました。

勿論、元気な人の方が多いのです。でも、大抵の人は、何かあるようです。

特に元気な夫婦で、一等の全線定期券を持っているので、スイス中、週に二度、山歩きに出かけている人がいます。スペインのバルセロナまで、自転車で行ったような人たちです。奥さんは、腰の手術をしていて、先回は、少しびっこを引いていましたが、今は、何ともないそうです。

奥さんを失った人は、「スポーツ」の他には、「ハッサン」で、オーストリア人の奥さんを亡くし、1990年に初めて参加。1992年には、新しい奥さんを連れて来ました。彼女は、明るくて、気さくな人で、1994年、二人で、イタリアに住んでいるので、ピエモンテの会のお世話係をしてくれました。二人とも、旅行が好きで、世界中を飛び回っています。夫には羨ましい話ですね。私は旅行があまり好きでないので・・・。

2年後の再会を約束して、別れましたが・・・。

私は、毎週、近所の老人ホームに行っているせいか、お年寄り、そして、死が、日常のことになっていて、あまり、深く感じません。今回のように、夫や私の同年代で、病気の人、段々を衰えていく人を見ると、つらいです。でも、「市内電車」や奥さんのように、体の大変さを乗り越えて、生き生きしている人を見て、感心して、勇気をもらって、帰ってきました。

今回は、夫の同級生、妻たちについて書きました。日本の人たちと、違いますか?それとも、やはり、どこか、似通っていますか?

雪子

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ご立派なことです。少なくとも私の関連する同級会では夫婦同伴は経験がありません。他にも余り聞いたことが無いので日本では少ないと思います。若い時から実施していないと、今からでは無理のようです。
浪岡
2008/09/21 22:30

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